朝焼けの似合う優しさのように

 今月16日のライブの様子を散文に纏めました。
 僕の人生に起こっていることは、全ての人の人生の一部であり、また世界の姿そのものなのでしょう。
 この日のステージは、僕にとって、精神的な改善点や音楽の本質的な楽しみ方について教えてくれる様なものになったのかもしれないなと思っています。
 なかなか興味深い、自分や社会への洞察へと繋がった様に思える一夜でした。
 ステージよ、ありがとう。





   SET LIST


 1 DEAR FRIEND
 2 愛しき人生
 3 オーロラ
 4 WALK
 5 ALL JAPAN
 6 僕にできること
 7 モンシロチョウ


 8 モンシロチョウ(Session)








   朝焼けの似合う優しさのように


 もう二十七時を回った頃だろうか。


 閉店時間のはっきり分からない様なライブハウスには、まるでヒッピーみたいな連中が、泥酔して、朝の訪れを待っている。
 その様は、ジャングルの密林地帯に潜み、束の間の休息を取る兵士の様にも思える。
 僕は、そんな風景を見つめながら、これがこの国の素顔なんだと心の中で呟く。


 ウタハキミノココロノトビラヲノックシタカイ



 今夜のライブは、先週の様には上手く運ばなかったな。
 僕はそんな風にあれこれと、自分のライブの出来について思いを巡らせている。
 でも、ライブなんてとても不思議なもので、完成度が低かったからといって、イクオール人の役に立たないという訳でもないものだろう。
 声が酷く枯れてしまっていて、確かに自分自身満足のいく歌ではなかったけれど、今日を生きている生身の人間としての息遣いを刻むことで、何かを人の心にしるし伝える様な大切な行為へと繋がり得ることもある。
 そんなことを思った、今夜のステージだった気がする。



 僕のステージという闘いは終わったばかりだけれど、聴いてくれた人の心の中では、今彼らの現実の中で、どんな形であれ、僕の歌はまさに歩き始めたばかりなのだろう。


 そう思ったのは、常連客である中年男性とのライブ後の語らいを続けていた頃だっただろうか。
 色んなことを話している内に、聴き手側の心に僕が思いを込めて投じた一曲一曲の歌は、明らかに化学反応の様なものを起こし始めている兆候が感じ取れる思いがした。
 そして、それは僕が音楽をやっていく中で、一番強く欲し望んでいることだった。


 新たなるパラダイムの発生。
 それを僕は感じていたのだろう。


 歌は、口からメロディーや言葉を発した時点で、既に次元を更新する手段の様に感じる。
 新しい歌を一曲一曲生み出し、思いを込め、世界に立ち向かい歌い上げることで、僕の内面に発生したパラダイムを、きっと、心の中に広がる内なる銀河としてのモラルや秩序に留めておくのではなく、外界の世界に見事に投影し続けているのだ。


 現代のライブハウスに秩序はあるのか。


 正直な気持ちを言えば、そんな風に感じていた、ライブハウス内に渦巻く不調和に呑み込まれかけていた一夜だった。
それは、別段近年になっての話ではなく、ライブハウスではごくごく日常的な光景だった。


 客層の殆どは、アマチュアミュージシャンであり、音楽をプレイすることや仲間と話すひとときを過ごすことで、日常に抱えた心の澱を流す目的があったのだろう。


 会話を楽しみながら音楽を楽しんだり、それぞれの音楽との付き合い方がある。
 色々な楽しみ方があっていいと思う。
 だが、その一方で妙な仲間意識が存在していると思える瞬間や集団で何か不都合な存在を排除する様な動きを、肌身で感じてしまう様な時を、長いライブハウスでの活動の中で何度も経験したことも、僕にとっては事実だった。
 そして、そうした社会こそが、僕が情熱と汗を費やし立ち向かうべき現実の壁だったのだろう。
 僕は、ずっとそんな風に生きてきた。


 そんな社会の中に、僕は自分の音楽と真心一つで調和を実現する為に生きている。
 昔作ったLIVE HOUSE HISTORYという曲があるけれど、その曲が急に心の中で鳴り出して、まさにその闘いの日々を描いた僕の当時の心境や愛しい青春を思い出す。


 その闘いに勝てたかと誰かに聞かれたとしたら、僕は一体何と答えよう。


 そんな風なことを、この夏に久しぶりに歌い始めた二本目のステージを終えたことによって、考えさせられていた。



 未熟だった青春の日々は、ライブハウス内の不調和といつもぶつかってばかりで、音楽を上手く奏で伝えることが出来ず、七転八倒の苦しみに喘ぎ続けた。
 平たく言えば、下手だったということになるのだろう。
 そして、大抵の場合、ミュージシャンは周囲の環境のせいにして、状況を好転させるチャンスから見放されるケースが多いのだろう。
 勿論、それぞれの才能の限界があるのも本当だろうし、だけどまっすぐに磨き続ければ、かなりのところまで音楽的センスを高められるのも、また事実の様な気がする。


 僕が目撃してきたライブハウスの実体というものは、悲しいかな、多くの場合は能力の競い合いによる、どんぐりの背比べといったところだった気がする。
 何も芸能界に入らなくたって、この社会はとどのつまり、どこまでいってもつまらない生存競争の嵐が続いていたという訳だ。


 僕は、徹底的なブランド思考と商業主義の都会にある意味敗北して、自分らしい生き方を探し求め生きてきた。
 そして、辿り着いたのが、故郷の街にひっそりと佇む、この夜に歌ったライブハウスだった。
 マスターもミュージシャンで、志を感じるなかなか熱い男だ。
 僕は、そんなマスターの生き様に共感することが出来たし、だからこそ、マスターの経営するライブハウスで、何か正義や真実といったものを歌いながら探し続けてきたのだろう。


 メジャー批判だけに終わるマイナーな人生の鬱憤になんか埋もれていたくなかったし、本当に輝いた人生の意味を探し続けた。


 社会批判は、その人の立場から見た視点で語られることが多いのかもしれない。
 ミュージシャンとしてメジャーを目指し、得られなかったものの多さに対して、愚図ぐす言ってばかりで、厄介な批判屋になるのは嫌だと思うし、だからといって、現在のメジャーの活動に強く疑問を持っていることも本当だった。
 メジャーとして色々な制約や柵の中で、メッセージを紡ぎやっていけるのであれば、それも素晴らしいと思う。
 物事はいつも、光と影により織り成されるドラマだ。
 商業ベースによる音楽の大量生産は、ミュージシャン達の夢を確実に実現している訳で、だけど同時に、社会的に何か代償を支払って、音楽家としてのスピリットを自ら死に追いつめている様な部分もあるのだろう。


 3.11以後のこの社会では、特にその部分が顕著に表れているだろう。
 本当に言いたいことが歌えないメジャーの世界。


 僕は、そんなメジャーの世界にずっと不満を覚えていたのだけれど、よくよく考えてみたら、マイナーで必至に何かを追い求めている連中が代わりに頑張れば、それでいい話なのだと、最近はそう思う。
 本物志向が本当にマイナーという可能性であるのならば、
コノセカイヲヒックリカエスチャンスダッテツカメルハズサ



 僕は、映画「フィールド・オブ・ドリームズ」がとても好きなんだけど、生前にメジャーで大活躍していた野球選手が、霊として現れ、今度は金や名声の為ではなくて、本当に心から野球を愛する気持ちで仲間達とプレイする喜びに目覚めるという素敵な物語だ。
 僕は、ミュージシャンとしてそういった価値観の下に生きたいなと、ずっとそう思ってきた。
 それは、二十世紀に於けるバリバリの物質至上主義社会では、きっとただの青臭い夢物語だったに違いない。
 誰にも理解されず、きっと世間からは負け犬の遠吠えの様にしか映らなかった人生観なのかもしれないなと思う。
 だけど、二十一世紀的な愛と調和のこれからの世界では、僕にとってそれは何だかとてもリアリティーが感じられる世界観になってきている。


 僕が、故郷にあるこの話のライブハウスに夢見ていたであろう世界は、そういったストーリーだった気がする。


 ギター一本で、慎ましやかなステージに立ち歌い出せば、本当にその価値にシンパシ―を覚える人々が、どこからともなく集まって来て、派手な照明も何もない、ごくごくシンプルなライブは、本当の歌の力だけで白熱し、燃え上がっていくんだ。
 そう。それはフィールド・オブ・ドリームズの中で、レイ・キンセラが何かの声を聞き、自分のトウモロコシ畑を野球場に変えて、そこで純粋に野球を愛する選手が、まるで子供に戻ったみたいにはしゃぎながらプレイする、あの光景に似ている。
 立派なスタンド席もないけれど、その代わりに用意された、グランドと同じステージの特等席がある。
 その席からは、選手達の息遣いさえ感じ取れるリアルで特別に思える距離感が手に入り、日常はまるで魔法にかかった様なときめきの色に染まっていくんだ。


 僕は、そういったリアリティーの創造を目指している。
 超一流プレイヤーに、庭先で見ている様な感覚で触れられ、野球の本当の素晴らしさが誰にでも分かる様な空間。
 それって一番贅沢な楽しみ方の様に思う。


 それが、僕の思う、今後の世界の価値観がひっくり返った社会の姿だ。


 八百長を働いて、感動も何もないメジャーって本当にメジャーと呼べるものなのだろうか。
 僕はそう思う。
 勿論、多くの人の役に立っている訳で、素晴らしい才能に溢れた世界だけれど。


 実際に何をやっても、まずオーナーがいて、その権力に服従して、誰もが生きている。
 フィールド・オブ・ドリームズはそんな実社会の中でベースホールの魂が失墜していった様な悲しみの向こう側に、真の希望が生まれる、そんな物語だ。
 それは、ちょうど今の日本社会や世界情勢の姿に不思議と重なる様に思う。
 そして、人々はもう一度心の中に夢を取り戻すことが、映画の中で暗示されている。
 それは、純粋に人々がベースボールを愛する姿であり、また僕にとっての愛しい音楽との関わりの中にこそ育まれるであろうものだ。


 まっすぐに何かを愛すこと。
 社会的なことなんて、本当は大した問題じゃないのだと、皆が理解し、例えば野球や音楽を楽しむ。
 本当はそれでいいのだと僕は思う。
 究極的に突き詰めていくと、きっとそういったシンプルな世界観が残っていくんじゃないかな。
 そのフィーリングを伝えられるステージを僕は続けていたいなと願う。


 その夜、ライブハウスの現実を見つめながら、社会に革命を求めたロック道が、僕の心の中で、何か今、僕自身に熱く語りかけてくる様だった。
 それは、人の心の欲望や狂った理性に向き合いながら奏で上げる、僕の人生の中での名もない日常のストーリーだ。






 何故、夜の街の表情はこんなにも陰鬱で悲しくなることが多いと感じられるのだろう。
 歌がつまらなければ聴かない。それは道理だろう。
 それは、美貌を売るアイドルが老け込んだら見向きもされなくなるのにも似ている。
 美しくなければ、単純に人を魅了することは出来ないのだろう。
 声がとても枯れてしまっては、ボーカルの商品価値も下がるということか。


 ただ、そういうことだけでは割り切れない様な、社会の闇を僕は感じていて、それを何とかしたいという痛切な思いに駆られている現実を、それでも静かな心で見つめ続けているんだ。
 無秩序さについて、どうのこうの言おうとしている訳ではなく、もっと純粋な何かが、僕はただ欲しくて、だからずっと歌い続けているよ。


 こんな日のライブハウスを客観的に見つめていると、とにかく人の心が酷く傷つき寂しがっていることが分かる様な気持ちになる。
 だけど、日常にはそれらに対しての救済もなく、攻撃的な面ばかりが殺気立っている様さ。
そして、いつもの様に音楽という祈りが僕には必要に思えてくるんだ。


 音楽を介して会話をする時、ふと日常的ではない中立な空間が人々の心の中に生まれ易くなる気がする。


 酒に酔い潰れ、それぞれに心に何かを抱えながら、閉店までマスターに甘える様に集う常連客達。
 そんな姿を近くで見ていると、僕は思わず堪らなく切ない様な気持ちになる。
 ライブハウスにモラルが感じられないということ以前に、この国の実像を垣間見た様な気持ちになり、熱くなるんだ。


 人が僕に対して取った態度は、いわばどうでもいい事なんだ。
 それは、あくまでも個人個人の抱えた問題だし、美しく調和を保てない社会の現実を思うと、胸が締めつけられる様な気持ちになるよ。
 勿論、ライブハウス内を音楽の力で調和で一杯に満たせなかったと感じる、ミュージシャンとしての僕の一つの敗北が存在しているけれど、生身の人間だもの、いつも完璧に近い演奏が出来、完全であり続けるなんて話も嘘臭いかもしれない。
 それを目指そうとする気持ちは、ミュージシャンとして当然僕の中にある訳だれど、野球で打者が十割は打てないのと同じで、ライブにはいつも当たり外れがあった。


 調和を欠いたライブハウス内は、つまり時代の風景そのものの様に感じていることを、僕は伝えたい。
 それがこの話のテーマだ。



 何だか、子供達のいじめの問題もそうだし、原発関連の政府の国民に対する対応の在り方や、また僕達国民の他力本願で我がままになった様に思える、日常的な感謝なき不幸の連鎖など、色々なことを考えさせられる夜だった。


 ライブハウスでも会社や学校でも、近所の付き合いの中でも、全ては一つだと思うから、マナーに欠けた社会というものの真の姿について、愛の視点で問題を語り、その解決に努めたいと切に願っている。


 社会の根底から腐敗し切ると、いじめが急増する様に思う。
 人の弱い心が、日常に打ちのめされて行く当てをなくし、彷徨っている。
 そして、際限なく社会的に立場の弱い人間へと欲求不満のはけ口は回され、集団的いじめ体質は益々強固なものになっていくのだろう。
 それは、ライブハウスのモラルの低下という現実に直結している様に、僕には思えた。
 ライブハウス一つをとっても、色んな楽しみ方があっていいと思うけれど、現代は自由というその一線を誤り、踏み外していることがやっぱり多いように思うよ。
 何かが違っていると感じているよ。


 その現実を打ち破る為には、別の力でただ抑えるということだけではきっと解決出来なくて、全ての実態を認識させる様な、そんな術が社会的に必要なのだろうと、個人的にはそんな風に考えている。


 そんな風に語っていくと、結局僕にとっては、ずっと切々と歌い続けていくことしか道はなくなる様にいつも思える。
 結局、僕にとって話はそこに落ち着く訳だけれど、ライブの夜に感じた本当の気持ちを分かち合いたく、心の中で起きた出来事をメモしておこうと思う。